日本人、歴史上の人物で異彩を放つ名言!人並み外れた人物(異才・偉才、天才、鬼才、偉人)の名言・辞世の句・語録集「異彩を放つ!己の信念を貫き通した歴史上最高クラスの名言集」です。すごすぎる超人や達人、名人だけではなく、実在する伝説上の忍者、大泥棒、武士、僧侶、革命家など生きた時代で、己の信念を貫き通した歴史上の人物の名言や辞世の句を今どき風な言葉にして意味付きで解説しています
異彩を放つ!己の信念を貫き通した歴史上最高クラス・レジェンド(異才・偉才、天才、鬼才、偉人)の言葉-意味付きの名言集
出典引用:wikipedia「歌川国芳「本朝水滸伝・尾形周馬寛行」(自来也)」
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実在する歴史上の伝説の人物達の名言集
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異才、鬼才、偉人と呼ばれた本物のレジェンドの語録を今どきの言葉で解説
日本の歴史に実在する本物のレジェンド(伝説的な人物) の言葉、名言、辞世の句を、今どきの言葉で分かりやすく意味付きで解説。辞世の句(死ぬ間際に歌ったとされる俳句など)は創作、捏造されている場合もあると指摘がありますが、大方、その時代に生きた人物への敬意ととらえる事ができる。人物像や物事の考え方、生き様に大きな乖離はないと考えても問題ないとのではないでしょうか。人がどう評価しようと何れにしても、本心は本人の心の中にしかないのですから、伝えたかった意志を受け止めてあげる事の方が重要でです
石川五右衛門の名言-天下の大泥棒!伊賀流忍術の祖、百地三太夫の弟子
石川五右衛門とは?16世紀、安土桃山時代に生きた大義賊、盗賊とは異なり時の権力者、領地主からモノを奪う大泥棒が石川五右衛門。豊臣秀吉の政権下では、庶民のヒーロー的な存在であったとされる。もともとは、伊賀流忍術の祖、百地三太夫(百地丹波)の弟子であったとされるが、三太夫の妻と恋に落ち、破門。その後、抜け忍となり、義賊となる。1594年の夏、捕らえられた後、街中を引きまわされ、京都の三条河原で生きたまま油で煮られ処刑されたのが石川五右衛門とされている
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石川五右衛門「うるせぇ、馬鹿ども。俺は、死なねぇぜ!たとえ、死んでも、俺の意思は受け継がれる!!」
出典引用:wikipedia 「一陽斎豊国 画『石川五右衛門と一子五郎市』」
石川五右衛門の辞世の句は「石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ」。直訳すると「俺が死んでも泥棒はこの世から消えて無くなりはしない」という意味になる。天下の大泥棒は時の権力者に最後まで戦い続けたからこそ、この言葉がでたのだと解釈する。これは、たとえ俺が死んだとしても、俺の名は、後世に残る。俺の野望(正しいと考える信念)は決して果てる事はない。俺が死んでも、生き続ける。必ずや、俺の意思を引き継ぐ者が現れるっといった気持ちを表した言葉であろう
牛若丸と弁慶の名言-日本史上、最強・最高のゴールデン・コンビ「源義経&武蔵坊弁慶」
牛若丸とは?武蔵坊弁慶と共に、平家を壇ノ浦の戦いで倒した歴史上の人物の源義経のこと。もともと僧侶であった弁慶は、寺を破門され京都で盗賊となる。999本の刀を奪い、最後の1000本目で源義経に敗れ、義経に仕える。義経の愛刀の膝丸(ひざまる/薄緑)は約87cm程と非常に短く、身のこなしのある刀の達人でなければ扱うことができない。義経は平家との戦いで、船を飛び回って戦ったと記録がある。身軽で剣術の優れた人物であり、日本の歴史上最強クラスの刀の達人とされています。平家撲滅後は、兄の源頼朝と政権争いになり、最終的に追われ、日本中を逃げながら戦ったとされる
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弁慶「義経ぇ!三途の川で先に待ってるぜ!」
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義経「嗚呼、先に行っててくれ。すぐに追いつく!次はあの世で!暴れてやろうぜ、弁慶ぇ!」
出典引用:wikipedia「義経と弁慶」
現代風に翻訳したのが上記。弁慶と義経には、弁慶「君御先立ち候はば、死出の山にて御待ち候へ、弁慶先立ち参らせ候はば、三途の川にて待ち参らせん」 、義経「先立ちたらば、まことに三途の川にて待ち候へ。御経もいま少しなり。読み果つるほどは、死したりとも、われを守護せよ」という記録があり、共に戦ったとされている
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弁慶「生き残るかもしれねーが、あの世へ行く道で、また会おうぜ」
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義経「嗚呼、何度、生まれ変わっても。また会おう、極楽浄土まで一緒に行くぞ」
出典引用:wikipedia『芳年武者無類』の内「九郎判官源義経 武蔵坊弁慶」
現代風に翻訳したのが上記。弁慶の辞世の句は「六道の道の巷に、待てよ君、遅れ先立ち、習いありとも」 、返し言葉で義経は「後の世も、また後の世も、廻り会へ。染む紫の雲の上まで」と読んだとされています。弁慶、義経は家臣と家来の関係を超えた友情があったのでしょう。最強クラスの剣の達人と、999本も刀を奪い取ったことのある大柄の男は、日本の歴史上最強・最高のゴールデンコンビです
読み人不明-冤罪で死罪となった"いろは歌の天才作者"
いろは歌の作者は不明である。いろはにほへと・・・これは日本語の"かな"を覚える歌として、47文字をすべて使った言葉で、ちゃんと歌となってる。一般的な解釈は、色鮮やかな花も、いつかは枯れて散ってしまう。永遠に生きられる人などいない、人生とは楽しいこと、辛いことがたくさんあるものだとされる。
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「無実の罪を着せられて死ぬ、この私の想いよ・・・妻に届け・・・」
いろは歌を縦読みすると、メッセージが浮かび上がってくる。昔の歌や詩には、縦読みや枕詞などで秘めた想いを伝える風習があり、ひらがなを47文字を全て使い、歌にした上で、さらに縦読みで意味を込めるなど、すご腕の詩人でもなければ作詞することができないであろう
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「とが無くて死す、ほを津の小女」
咎無くて死す、本を津にする妻に届けてくれという言葉が暗号のように隠されていおり、いろは歌の作者は、無実の罪、冤罪で処刑された人物ではないかとされています。偶然では?と思うのであれば、何故、昔の歌は枕詞のように、2重に意味を込める風習があるのでしょうか?伝えたい気持ちを、分からないように伝える必要があるからこそ、発展した手法だからです。いろは歌は近代まで使われていましたが、この縦読みが、縁起が悪いとされ、今では使わないようになっています
葛飾北斎の名言-この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人のうちの1人
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葛飾北斎「わっはっは。死んだらオバケにでもなって・・・気晴らしに、夏の原っぱにでも、出かけるかな」
出典引用:wikipedia「葛飾北斎」
葛飾北斎の辞世の句は「人魂で、行く気散じや、夏野原」、今風に翻訳すると上記の意味になる。生涯に3万点以上の作品を残した江戸時代の浮世絵師の葛飾北斎。富嶽三十六景など世界にも通じる名作を持つものの、"鉄棒ぬらぬら"のペンネームで春画(アダルトの絵)も多く手がける、代表作は蛸と海女。風流な性格をした人物であったのだろう。
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葛飾北斎「あと5年だけ生きる事ができたら、私は、神の領域まで達したはずだ・・・私は、本物の画家になれたであろう」
出典引用:wikipedia「葛飾北斎」
「願わくは、長寿の君子 予言の妄ならざるを見たまふべし」の意味は上記。6歳の頃から絵を描くようになり、50歳の頃から数々の図画を書く。70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである、73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうと述べた記録がある
天草四郎時貞の名言-島原の乱、一揆軍の最高指導者「キリシタンの天草四郎」
天草四郎とは?江戸時代のキリシタン、島原の乱の首謀者、16歳でリーダーとなる。出生、生涯は不明な点が多いが、幼き頃からカリスマ性の高い人物であったという。島原の乱は日本史上最も大規模な一揆(クーデター)、内戦。キリスト教を禁止し、重い年貢(税金)をかける幕府に対する不満が、原因で起きた事件です。最後は原城に3ヵ月間、籠城したが幕府軍に鎮圧される
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天草四郎「苦しい戦いでも・・・最後まで、俺について来てくれてありがとう。天国に行っても、ずっと俺達、仲間だ」
出典引用:wikipedia「競勢酔虎伝:天草四郎(月岡芳年作)」
天草四郎の辞世の句「いま籠城している者たちは、来世まで友になる」は、「今ここで。最後まで一緒にいる君たちは、たとえ死んでも・・・来世(天国)に行っても、ずっと仲間」という意味です
沖田総司の名言-壬生の狼、美男子で天才剣士と呼ばれた「新撰組1番隊組長 」
壬生の狼と呼ばれた新撰組、一番隊組長の沖田総司。美男子で天才的な剣術の持ち主、天然理心流に9歳で入門。4代目を継ぐ近藤勇よりも先に、沖田の名前があり、実力は上であったと推測される。池田屋の襲撃時に、肺結核で倒れ以後、一線を離脱した
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沖田総司「もう動く事もできねぇ・・・死ぬことよりも、強敵(友達)と別れることが淋しいな」
※沖田総司の現存する写真は、発見されていない
沖田総司の辞世の句「動かねば、闇にへだつや、花と水」。病気なった沖田。辞世の句は「死を恐れるよりも、花(=沖田)、水(=土方歳三)の別れの方が辛い」という意味です
植芝盛平の名言-仙人と呼ばれた男、銃弾をも生身で避ける合気道の開祖
合気道の開祖、植芝盛平。モンゴルでの銃撃戦で、敵弾が来る前に「光のツブテ」が飛んでくるのが見え、それを避けることで敵弾から逃れるという体験をする。156cmの身長と小柄ながらも、大相撲関脇・天竜(和久田三郎/身長187センチ体重116キロ)を投げ倒す実力者
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植芝盛平「ワシには、鉄砲は当たらんのや」
出典引用:wikipedia
盛平自身の説明では「敵の銃弾より先に赤い光が飛んでくるので、それを避けると後から銃弾が飛んでくる」「剣を相手にしたとき、まず白いモノが振り下ろされ、それを避けると必ずそのあとに本物の剣が振り下ろされる」のだという(塩田剛三の証言) 軍隊の銃撃手6人に25メートルの所から、植芝氏を狙らわせ、隊長の命令により、一斉に銃が発射された、すると、砂埃が舞い上がり、植芝氏は消えて、そして、いつのまにか軍隊の銃撃手は投げ飛ばされていたいう。この実験は2回行なわれたが、2回目も同じ結果だったという